2014-10-22

歌を作る場合、曲先(きょくせん)と詞先(しせん)という二つの態度があることをある方から教えてもらった。曲先とは曲を先に作り詞を後につける方法である。詞先とははじめに詞を作りそれにあわせて曲を作っていく方法である。詞を先に作る方が日本語の場合はやりやすいとのことであった。日本語の言葉には高低アクセントがあり、それにあわせてメロディーがつけやすい。しかし、曲が先にあると、それにあわせて選んだはずの語の高低アクセントが必ずしも曲にあわないことがおおい。そのために、調子に違和感がでることがある、というような話であった。なるほど。

自分の知っているドイツの歌曲は有名な詩人の作った詞に曲をつけたものが多い。ハイネの詞にシューマンが曲をつけた「詩人の恋」はもちろん詞先であろう。この歌曲集の第一曲 Im Wunderschönen Monat Mai (美しの五月に)は自分はたいへん好きである。この曲はピアノの伴奏が素晴らしくて、悩ましい。

ゲーテの詩に曲をつけた、糸を紡ぐグレートヒェン (Gretchen an Spinnrade) やトウ−レの王(Der König in Thule)なども自分の好きな曲である。ドイツ語は強弱アクセントの言語であり、第一音節に強勢が置かれる。高低アクセントの言語よりも、強弱アクセントの言語の方が、曲先にしろ詩先にしろ、作曲は楽な感じがするがどうだろうか。

西洋の歌詩は脚韻をそろえることも必要である。あるときに日本人の方が英語で作詞作曲した曲を公的な会場で披露してくれた。私の横にいた学者の方は、韻がまったく踏んでいないとビックリされていた。私の英語力では詩の朗読を聞いても脚韻があるのかどうかあまり気づかないが、その方は英語に対して鋭い感覚の持ち主で脚韻の踏んでいないことを即座に見抜かれた。何でも見抜く人の存在は恐ろしい。

詩にはどうしても形式が必要である。「青い山脈」があれほどヒットしたのも、わかくあかるい(7)うたごえに(5)なだれもきえる (7) はなもさく(5) と七五調が快い点があるだろう。最近の歌は形式の枠を取り外し自由すぎるようだ。しかし、それは芸術の魅力を半減させる。芸術にはやはり枠は必要だ。